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Takayuki OZAKI
 尾崎孝之

Relation entre la littérature et la catastrophe — autour du Monde désert

 文学と破局との関係『荒寥たる世界』をめぐって

Négation et catastrophe
否定と破局

『荒 寥たる世界』において、愛と死のドラマを演じるのはジャック、バラディーヌ、リュックの3人である。この3人はそれぞれ自分と他の2人に対して、否定と肯 定という相対立する感情でつながれている。そして、最終的に3人を支配するのは否定の感情である。この感情が、ジューヴのことばを用いれば迫害妄想が、3 人の関係を破壊する。だが、何故否定の感情が支配的な力を振るうのかは謎のままにとどまる。その明白な理由は読者に明かされることはない。3人の登場人物 が否定の動きに身を任せ、破壊や喪失に身を委ねる様が描かれているだけである。これは3人ともが、自らを超えた大きな力に動かされているからであろう。あたかもルカによる福音書第8章に描かれている、悪霊に取り付かれ、湖になだれを打って駆け下り、溺れ死ぬ豚の群れのように、彼らはこの否定の感情に取り付かれて、破局へと突き進むのである。

  例えば、ジャックは死や破局について次のように言っている。「破局を考えていると心が休まる。その破局に身を任せ、その上に、その中に眠ってしまうことも できる」。あるいは、次の記述、「ジャックは、生命の極点にいて、自分を待ち構えている生命の崩壊という歓喜を先取りして動揺する」。また、バラディーヌ にも次のような心の動きがある。「自分が意地悪になっていくのがよく分かりました。彼が哀れな様子で寝そべっているのを見ると、そんな時は、満足に思った ものです」。そして「彼(リュック)の気持ちの中には、彼自身どうすることもできない邪まなものがたくさんありました。私もジャックのことで、きっと彼を 憎んでいたのです」。リュックも同様である。「ジャックのことなんか、知ったことか」と言うのである。

Vérité et catastrophe

真実と破局

  こうして、否定の感情が破局をもたらすわけであるが、ただ注意すべきなのは、その破局の前には愛情に満ち溢れた幸福な生活が存在していたことである。それ と同時に、その破局の後には、何とも形容しようのない穏やかな安らぎの感情を伴った虚無感が存在することである。おそらくは、カタルシスの動きに通底する この虚無感、荒寥感は、そのままジューヴの文学空間の一つの中心を形成している。

  さらに広く言えば、ジューヴにとっては文学作品、特に詩作品が存在するためには、まず、この破局、喪失が存在しなければならない。悪、罪、苦悩による破 局、喪失が描かれるのが、愛と死をテーマとする小説作品なのである。したがって、ある意味において、ジューヴの詩作品は小説作品の後に生まれるものであ る。

  では、何故ジューヴは破局、喪失に強く関わるのであろうか。それは、悪、罪、苦悩による破局、喪失にこそ、天国と地獄、あるいは神と悪魔とのあいだに引き 裂かれた人間のありのままの姿が純粋な形で観察されるからである。失われて始めて楽園が人間にとって本来の楽園の姿を示すように、喪失の動きは極端にまで 突き詰められた人間のありのままの姿を提示すると言えよう。ちなみに、ジューヴがよく引用することばに、ボードレールの「そこに不幸の存在しないような美 を私は一つとして思いみることもない」というのがある。これはドストエフスキーの「人間は不幸な時に、はっきり真理を知る」ということばに通じてもいる。

Dieu et catastrophe

神と破局

  不幸や悪がこのように美や真理に強く関わるのは、不幸や悪、それに伴う破局や喪失の内に、人間が人間を超えたものに出会う機会が存在しているからである。 ボードレールの美やドストエフスキーの真理、そしてジューヴの破局や喪失は、したがって、人間を超えたものとしての神の存在に人間を立ち向かわせる一つの 機会となるだろう。

  ここから、ジューヴにとって、破局や喪失を描くこと、うたうことが、あるいはリュックの言うように「絶望を輝かせる」ことが、すなわち文学作品に関わるこ とが、神に関わることに連関するという現象が生ずる。ジューウの言う「芸術作品の果たす聖化の役割」がそれである。そして、芸術作品がこの役割を果たすた めには、換言すれば、作品が真実に生きたものとして生まれるためには、ジューヴ自身述べているように「詩人の生身は死なねばならない」ことになるし、ま た、スタロビンスキーの言うように、詩人が「常に過ちに陥って」いなければ、作品は真に生き続けることができないことになる。

Lecteur et catastrophe

読者と破局

  さて「リュックや他の人物が最早苦悩を見ないとしても、苦悩の方は彼らを見ている」とルネ・ミシャの言う『荒寥たる世界』を描くのに、ジューヴは当時とし ては革新的な映画のシークエンスを思わせる、極めて短い章で作品を構成している。この章と章との区切りや、3人の登場人物が話者になるその唐突な変化の内 にも、お互いに切り離され、孤立した3人の心の反映を見ることができるであろう。

 さらに驚くべきことは、第23章に見られる「いいぞ( oui )」という二つの叫びである。具体的に観察してみよう。この章では、まずリュックが、次いでバラディーヌが、話者を通してではなく、いわば読者に向かって直接的に発話するかのようである。

「きたないんだ、俺ってやつは。とんでもないことになってしまう。何をしようとしているのか。騒ぎを引き起こすことになる。でも、どうしようもない、大きな無垢が俺たちを運んでいく運命が望むところへ。(中略)そうなんだ( oui )、彼女のために俺の心が乱れる。俺を捕らえて離さない。どうしようもない、なるようになれだ。いっしょになって。溺れるしかない。そうなんだ( oui)」「彼がまた見ている。眼を輝かせて、彼に応えなければ。輝く私の眼が大好きだってことがよく分かっている、だから私は応える、どうしようもない、輝く私の眼、ほらどうぞ受けて。あげるわ。いいぞ( oui )、リュック、いいぞ( oui )、バラディーヌ」

 この最後の二つの「いいぞ( oui )」 は、あたかも作者であるジューヴが話者という仲介者を無視して直接、登場人物に向かって発しているかのようなことばである。それは、また今この小説作品を 読みつつある読者の気持ちをも代弁している。しかも3人の登場人物が破局の内に沈みゆくことを願っているような叫びである。

 こうして『荒寥たる世界』の読者も、その登場人物を通して破局を生きることをいわば強いられることになる。それは、破局( catastrophe )を生きて始めて魂の浄化( catharsis )を実現することができるからであろう。

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Ce texte © Takayuki OZAKI

Mise à Jour du 21 mars 2008

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